大学講義 野望としての教養 - 浅羽通明

大学講義 野望としての教養

大学講義 野望としての教養

 私が大学1回生に「どんな本を読んだらいいですか?」と聞かれたら、まずは大体この本を薦めることにしている。この本について簡単に説明すると、実際に浅羽氏が法政大学などで行った講義をまとめたもので、「教養とは何か?」ということについて延々と語られているのだが、多分このような本を読んでいる人と読んでいない人では、1,2回生で受講する教養科目の価値が数十倍違ってくる。
 批判に終始している節もあり、個人的にはあまり好きな語り口ではない。あえてこの本をお勧めする理由は、まず、古典文学からサブカルチャーまで幅広く実例が取り入れられており、大学低回生にも読みやすいこと。そして各見開きページの最後にそれぞれ細かく参考文献が記されており、自分で調べるための教科書的な配慮があることだ。
 そもそも教養は教わるものではないし、自分で調べて知識を身につけ、自身の哲学と議論させてやっと身になるものである。系統的な哲学の無い教養はただの豆知識だ。この本には、そういった「教養を学ぶための教養」を学ぶためのエッセンスがある。
 特に、第1講、第2講で述べている、「なぜ教養を身に付けなければならないのか?」という議論はその好例だ。近代以前は世襲という形で、桶屋なら桶屋、武士なら武士というアイデンティティが確立されていたのに対し、世襲の無くなった現代ではほとんどがサラリーマンにならざるを得ない。そこでどうやって自我を確立させていくかと言えば、もう教養しかないのだ。みんなが営業や企画など似たような仕事をしている中で、飛びぬけてモテるためにはジャズを聴いたりお洒落なバーを調べたりするしかないのだ。
 全15講と分量が多く、話の内容も重要なものが多いので、今後も別エントリで気になった章を批評していこうと思う。