箱男 - 安部公房

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 人間がすっぽり入るサイズのダンボール箱――その中には湯飲み、魔法瓶、懐中電灯など一式の生活器具がそろっており、衣食住全ての生活行為を箱の中で済ますことができる。外から見ればただの動く段ボール箱なので、こちらから声をかけない限り誰からも話しかけることは出来ない。中に入っている人の外見や社会的地位なども外から見れば一切不明。このようにして自らの地位や外見や属性の全てを匿名化し、外界とのコミュニケーションを完全に断った人間が「箱男」である。

 ふつう小説と言えば、非凡な属性(性格、能力、人間関係、社会背景など)を与えられた主人公が、非凡なイベントを通じて成長とか喪失とか感情の変化にいろいろ苦悩するのを見て楽しむものである。しかし箱男は最大限の努力をもって自分の性格を隠し能力を隠し、外界とのコミュニケーションを一切断つのである。つまり小説を成り立たせるための必須条件である主人公属性の封殺である。これは小説という概念自体への皮肉であり挑戦であって、アプローチとしてはある意味マルセル・デュシャンとかジョン・ケージに近いのかもしれない。

 文学への挑戦という前衛的な主題は、この物語が世に出た1973年時点でも十分先駆的で芸術的な考え方だったわけだが、この「匿名の何か」が町をうろつくという異常な状況は、昨今のネット社会において非常に身近な概念になりつつある。作中にて箱男は街行く人々から理不尽な暴力を受けたり、ニセモノの箱男に騙られたり、匿名をいいことにピーピングに没頭して自己を失ったりする。これは匿名であるが故に生じるコミュニケーションプロブレム(出会い系サイトで知り合った人が殺されるとか、2chなどの電子掲示板で特定の人が不特定多数の匿名人に非難を浴びるとか)の発生を予見してたのではないか、と深読みもしたくなる。